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2007.05.24 Thursday,
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表象の帝国
【表象の帝国】

表象の帝国

「最後の晩餐」は、ロランバルト著(宗左近訳)の「表象の帝国」をテキストにしようと思っている。

とにかくとても好きな本だし、「ニッポンの食事」をこれほど美的に洗練された形で描き出した例は、他に余り無い気がする。


読む快感が凄いので、ちょっと、読み進めるのがもったいないほどなのです(笑)。
あたかも、文字から映像が湧き出てくるようです。特に関連の深い部分をここに抜粋して引用しておきますね。


【お米】

煮た米は、一幅の絵画のなかに、緊密でつぶつぶした白さ、脆い白さをおく。やがて食膳に起こることは、こうである。

固められて粘りのある煮た米は、日本の箸で突き崩されるが、しかし、あたかも、決してばらばらにならない粘着を生み出すためだけに分離が行われるのだ、

とでもいうかのように、煮た米は絶対に散り散りになることはない。


【みそ汁】

日本では、お湯のような流動性を持つ、汁の軽やかさ、そこにいれられた大豆や、いんげん豆の微細な断片、二つ三つの個体の希薄さ(草の芽、野菜の繊維、魚の薄い断片)、

これらが少量のお湯の中にただよって澄んだ濃密という観念、脂肪のない栄養分という観念、

純粋になればなるほど強力になる霊薬という観念を与える。

微妙に海の匂いを宿る水棲のなにものかが、ものの生命の生まれる泉、深い生命源を瞑想させることになる。


【お箸】

微小なものと食べうるものとの合一が、ここにはある。ものは、小さいからこそ食べられる。

だがまた、食べられて人間を養うものだからこそ、
ものはその本質、つまり小ささという本質を満たすことができる。

東洋の食べ物と箸との協和は、機能と、道具の面だけにとどまり得ない。食べ物は、箸でつまみとれるように分断される。

だが、同時に、食べ物を小さな断片にするためにこそ箸は存在する。
分断する運動と分断された形そのもの、これが分断する道具と分断された物質の性格を超える。


「表彰の帝国 ロラン・バルト(宗左近訳)」より

2007.05.11 Friday,09:44
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